草模様





終電車から   佐藤 さと

しい。

今は それだけだ。
立ち止まると ところどころ油の浮いた 
黒い川面が見えた。


この街を縦断する運河 堀川には 流れがない。
伊勢湾の潮の干満によって無意味な
呼吸をしているだけだ。

堀川に呑み込まれるのは
街の下水管から吐き出された

汚水と廃棄物だ。

この運河は優しすぎるのだ。
醜いもの凡て、時には
人間の死体までも受け入れてしまう。

ほら、浮いている。
死魚〔しにうお〕が、白い腹を覗かせている。
鰓のあたりに蛆がわいている。
はらわたを食い破る無数の蠢く小虫達が
ぞろぞろと臓物にもぐりこむ。

私は 私の爪を凝視める。
なによりも色が悪かった。
煙草で黄ばんだ指先に
紫のセルロイドのように

貼りついていた。

夢 破れて 死あり。

私の夢。それは確実に訪れるであろう 
死だったのかも知れない。
私は 毎日死に場所を求めて
生活していたのだから。


私の傍らを行き過ぎる人々は、
凡てを黙殺して歩いて行く。
誰も私を眺める人はいない。

彼等はビルの壁、あるいは歩道の街路樹と同じ
保護色の衣服を纏っていた。

私はこうして家路を
一目散に辿る人々の眼を憐れんだ。


夢を売ります。
あなたの脂を吸い込んだ
銅貨一枚で・・・・・。

生活に疲弊し、夢に飢えた人々は
私の作りあげた束の間の夢を買いあさる。

そして、夢を売り払った今 私は
ポケットの中の銅貨を
チャリチャリ 音をたてている。

私はついに この銅貨のように
物体化したように感じた。
生への倦怠と絶望の気体を
肺臓に充たし
窒息しかけていた。

もう 私には
他人に対する
やさしさの感情が
磨耗していた。

歩き去る
人々の眼には。
私が
空缶のようにしか
見られていないのがわかる。

私にとって この人々は
一体 何なんだろう。



何処へ行こうか。これから ひとり・・・。

今夜の私は 私の行き場所を捜すために
終電車の切符を買った。

できるなら
思い出の無い街へ行きたかった。

思い出。

私はかつて思い出に恋をしていた。

私の希望に充ちた、夢を育んでいた頃に
そして 甘美な死を夢想していた頃に
私は憧れていた。
 

しかし
もはやその思い出は
他人の手に渡っている。

思い出は
私の友人に
最愛の恋人に
あげてしまった。

私は彼等の制止する声を背に
ひとり旅立とうとしている。

それは、まるで 死期を悟った老犬が
最期の力をふりしぼり
飼主の鎖を噛み切り 彷徨う
ようなものであった

私が今日まで住んでいた白い街に
水の涸れた古井戸がひとつある。

古井戸の底には
壊れた玩具や手垢のついた人形やビー玉が
無雑作に棄てられている。

夢の墓場。
それは思い出の世界。

新しく夢が生まれた子供に
古い夢は必要ない。

私は、羨まし気にその古井戸の
中を覗いたことがある。

この街での思い出は
古井戸を覗いたというものだけ
だったような
 気がした。
しかし
それも 駅のゴミ箱に
棄てようと思った。

終電車を迎える駅のホームは
蛍光灯の冷たく白い光で
照らされていた。

やがて
電車はやって来る。

私の乗るべき電車がやって来る。
私にはそれに乗る資格がある。



暗く 重く 沈んだ男の声で
列車内にアナウンスが響く。

「この列車は本日の最終です。
お忘れ物のございませんように。
次の停車駅は K。」

鉄橋を渡る音が 轟々と聞こえた。

ここを過ぎて哀しみの街。

淋しさだけのこの街は 轟音が途絶えた時に
さよならだ。

K。そこは私が生まれて育った街だ。
私の思い出が凍っている街。

もう 未練は無い。

私の座席の後ろに座っていた
若い男女が 何事か囁いている。



「Kで降りよう。
もう一度ここで 夢を作ろう。
そして 美しい思い出を残そう。」

「ええ。」


ああ、これだ。
人を生かせる唯一の希望だ。

パンドラの匣の底に残ったものだ。
しかし、この人たちは知っているのだろうか。
夢は自らが壊していくものだということを・・・。

望めば望むほど夢は大きくなるが
決してあなた達の手にはいらないものだ
ということを。

夢が夢であるためには
夢の儚さをなにより知らなければならない。

夢を破壊するものは
物理的な力を持つ権力だけでなく
あなた方の夢を作ろうとする幻想力なのですよ。

希望というゼンマイを巻いて
歩き続ける水と炭素化合物の人間の滑稽さと悲惨さ。
私はもう幾度かそれを繰り返した。

しかし
巻き過ぎて破裂した私のゼンマイは
二度とその役目を果たさなくなっていた。

終電車は停車した。

後ろの男女は
お互いを庇いながらKで降りていった。

私はひとり残された。
再び暗く沈んだ男の声のアナウンスが響いた。

「この列車は本日の最終列車です。次は終点です。」

私にはこの列車を途中で降りることができなかった。
私に新しい生命が吹き込まれるまで
私はシートに座ったままだ。

哀しい。

私はひとりだと感じた。

そして、また或る予感めいたものが生まれた。
この列車は たぶん私が生まれる前にいた処へ
運んでくれるのでは・・・・。と

終電車は 無感動なリズムを刻みながら
漆黒の闇の中を疾走していった。


〔二十歳〕







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